2019.04.27

スポーツあるいは部活動について

こんにちは。浜松市南区の自転車屋さんbicycleNOUERCAFEです。

NOUERCAFEの周辺では、学生さんがたくさん自転車で通ってゆかれます。自転車は、とても自由な乗り物です。その自由さゆえに、交通ルールのことを忘れがちです。

私も高校時代、やはり無茶な乗り方をしてました。だから、若者の自転車はあんなもんだよ。とも言えます。

が、社会的に鑑みた場合、近頃の自転車の運転についてはあまりにも目に余るものがあります。若者も、大人たちも。その緊張感のなさはそのまま自動車の運転にもあらわれているというのが、私の考えです。

手元に一冊の本があります。

発行は2005年の1月。元新体操の選手であった、山﨑浩子さんのご著書で『センス』というタイトルです。そのあとがきにこんなことが書かれています。長いですが、そのまま引用します。

 

『スポーツの技術は高くても、社会で生きていくための最低限のマナーを守らないのなら、スポーツをやる資格などない。スポーツは、その競技が作り出す小さな社会で、実際の社会での生き方を学ぶという絶好の場所であるはずである。それがただ単に体を鍛え、技術を学ぶだけの場になっていることは憂えるべき事である。

「知育」「徳育」「体育」などという言葉がある。こいうして三つに言葉が分けられていることが間違った方向へ行ってしまう原因なのでは?と思う。スポーツには知も徳も体も必要であり、そのすべてが鍛えられるのがスポーツなのである。日本におけるスポーツの地位が上がらないのは、「体育」だけを特化し、知や徳を分離してしまったからではないだろうか。

”個人主義”が蔓延し、「自分の好きなことを好きなように自由にやりなさい」という教育が溢れているが、自由とは何かを知るには、まず不自由さを学ばなければならない。そのためにはスポーツは最適のはず。

一人っ子であれば、家の中では女王様だったり王子様だったりするだろうが、スポーツの世界に入れば、全体の中のひとり、社会の中のひとりであるにすぎず、何でも自分の思い通りにはいかないことを知る。競技のルールによって、「してはならない」ということがあることも知ることができる。その中で自分を表現する手段を覚え、そして自由に表現するときには必ず自分で「責任」をおわなければならないことも知っていくのである。

指導者も親御さんも、スポーツに「体育」だけを望んではならない。

アテネオリンピックでみなが感動したのは、北島康介や野口みずき、谷亮子らの技や「体」だけではないだろう。

この舞台に立つために、彼らがどれだけ苦労をし、頭を悩ませ、心を磨いてきたのか。それがにじみ出ていたがゆえに、見る者の魂が揺さぶられたのである。』

 

いかがでしょう。今ではやや古臭い考え方かもしれません。よく教育や経営の現場では「古典に学べ」ということが言われますが、ほんの少し前の時代のなかにも学ぶべきことがたくさんあるのではないか。私はそう思います。

スポーツだけではありません。家庭、地域社会、企業組織の中にも不自由さやルールが存在します。それを嫌っていてはただ生きづらいだけです。そこで悩み葛藤し学んだ者だけが、自分の舞台に立てるのではないでしょうか。

若者たちのハツラツとした姿は、見ていて気持ちがよく頼もしいものです。彼ら彼女らが生き生きと歩んで行けるよう、私たちの生き方を通じて応援したい。若者たちは、必ず私たち大人の背中を見ています。それを肝に命じつつ。