2019.06.01

顔の見える地域社会を

こんにちは。浜松市南区高塚町、街の自転車屋さんNOUERCAFEです。

川崎の事件。犠牲となられた方のご冥福ならびにご回復をお祈り申し上げます。

報道によれば『引きこもり傾向』にあったとのこと。この点に関しては軽率な報道との批判も出ているようで、物事を短絡的に判断してしまいがちな昨今では、確かにもう少し慎重かつ丁寧に言葉を選んだ報道の仕方があったのかもしれません。

人を殺めるという行為は絶対にしてはならないことですが、そのことを分けて考えてみると、彼も被害者なのかもしれないという想いが浮かびます。彼のような人間を生み出してしまった、私たちの、この社会の犠牲者とも言えなくはないだろうか?と。そこに思いをはせてみる必要もあるのではないだろうか、と感じています。

人にはいろいろな個性があります。51歳ということですから、私が小学生の時彼も小学生だったことになります。私たちの年代だとその少年時代は、今よりは、いろいろな個性がごく普通に地域社会の中で受け入れられ一緒に暮らしていた時代かと思います。

おそらくそれがいつもの間にか、社会が変わってゆくなかで、少しづつ排除されたような形になっていったのではないでしょうか。自己責任とかいう都合のいい言葉で片付く問題でもないだろうと思います。

近くに住んでいても、お互いになるべく関わらない。顔の見えない社会が、今私たちの周りに当たり前の姿で横たわっています。

これからの、いえ今の社会に必要なのはその反対、『おせっかい』ではないでしょうか。

私の手元に『その島のひとたちは、ひとの話をきかない』という本があります。そこにこんなことが書いてあります。

『そのまんまでいい』『かっこつけなくていい』

そう。何かしらかっこつけないと生きてゆけない。それが、今の私たちの社会ではないでしょうか。生きづらさって、そんなところから生まれているような気もします。

手始めに、自分で自分にレッテルを貼らない。というところでしょうか。

お店の前を毎日、乳母車を押して畑仕事に出てゆくおばあちゃんが居ます。今日も今通って行かれました。毎日同じことをただ繰り返してゆく。ごく当たり前に。そんな『おばあちゃん』の暮らし方が、実はいちばん幸福な暮らし方なのかもしれないなーなんて、感じます。いえ、幸せとかそうでないとか、ではないのかもしれません。

人の暮らしの豊かさって、なんだろう。幸せってなんだろう。

ひとつだけ確かなことは、今日と変わりない明日がある、ということではないでしょうか。その明日を奪われてしまった人たちがいる。

言葉にならない想いだけが、そこにあります。